2011-06-30

カンボジアシルクの未来

 続けてのご案内です。
 6月29日に配信されたメールマガジン「メコンにまかせ」(vol.252)のなかで、森本さんは、カンボジア国内で新たに始まったカンボジアシルクに関する取り組みについて記しています。以下、メールマガジンより引用します。

 「カンボジアの養蚕業と、シルクの未来」、この遠大なテーマを見据えた会議が、先日プノンペンで開かれた。国連のWFPが財政も含めた支援をし、カンボジア政府の閣僚評議省(首相府)と農業省が中心となり、各州の農業省の担当者も含め、すでに養蚕を開始している各地の村人やNGO関係者も参加。IKTTからは「伝統の森」の村長トウルさんとわたしが参加、全体で約50名の参加者。
 これまでにも商業省を中心にしたシルクプロジェクトがあったのだが、そこからもう一歩前に踏み出した動きが始まったといえる。まず農業省が中心になり、養蚕農家を支援するための養蚕センターが開設され、具体的な品種改良も含めた見直しが始まっている。そこでは、同時にカンボジアの黄色い蚕、在来種の再評価が進められている。
 これまでの養蚕業は、それをわたしはあえて「近代養蚕」と呼ぶのだが、効率と生産性が第一に掲げての品種改良が進められてきていた。結果的には、機械に対して効率のよい糸を吐く蚕が優先された。それゆえカンボジアの在来種は、効率の悪い蚕とみなされてきた。しかし、大量生産を前提に品種改良しつくされた蚕は、いまでは桑の葉を食べさせてもらえず、人工飼料で育てられている。それは、いわば工場で作られるシルク。結果的には、丈夫さやしなやかさに欠ける、水洗いができない弱いシルクになっている。
 カンボジアで古くから飼われていた、黄色い生糸を吐く蚕。そして、昔ながらの座繰りと呼ばれる方法で繭から糸を、手で引く。IKTTの「伝統の森」で引かれる、しなやかな生糸である。その生糸のよさが今、見直され始めている。たとえば、月に1000メートルの布を、と突然の問い合わせがベルギーから。それ以外にも、そんな問い合わせが来るようになってきている。しかし、現在の生糸の年間生産量はカンボジア全体でわずか5トン。月に1000メートルの布のためには、一年間で1トン以上の生糸が必要にある。しかし、それだけの生糸は現在のカンボジアでは確保できない。生糸の生産量が足りない。タケオなどの織物産地で使われている生糸の多くは、ベトナムや中国から輸入されている。それは、大量生産された生糸、その輸入量は年間400トンを超える。
 プノンペンの会議では、10年後、2020年に生産量を400トンにして行くための戦略が話し合われた。しかし、それは大量生産の近代養蚕を目指すものではない。カンボジアの在来種の蚕を生かし、効率だけを最優先させるのではなく、より丈夫な養蚕農家にとって必要な蚕への品種改良を準備するというもの。それは決して容易なことではない。しかし、その第一歩が踏み出された。その目標を現実のものとするための、養蚕農家を支える政府の具体的な政策が動き始めた。かつて日本では、各地に蚕糸試験場があり、養蚕農家を支えてきた。それと同じようなシステムが今、これからのカンボジアの養蚕農家には必要である。
 IKTTも「伝統の森」で、蚕を飼い、そのために必要な桑畑を試行錯誤をしながら少しずつ広げてきた。しかし、蚕は生き物、生モノ。決して容易なことではない。でも、その吐く糸は素晴らしい。これからもIKTTは、カンボジアの黄色い生糸の未来のために、その力を、カンボジアの多くの村人と合わせていきたいと、いま願っている。

【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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クメール語の小冊子『森の知恵』にまつわるTV局の取材

 6月29日に配信されたメールマガジン「メコンにまかせ」(vol.252)で、森本さんは、カンボジアのTV局から取材を受けたことを記しています。以下、メールマガジンより引用します。

 数日前、「伝統の森」でカンボジアの人気テレビ局CTNの取材を受けた。昨年の「蚕まつり」を取材し、特番を作って放映してくれたテレビ局だ。
 最近、カンボジア国内で、IKTTの活動と名前が知られるようになり始めている。カンボジアの織物やハンディクラフトの活動にかかわるNGOの人たちの訪問が増えている。なかには、自然染色の研修に訪れるグループもいくつか。そして、王立のプノンペン芸術大学の学生や、農業大学の学生などもグループでやってくるように。伝統の生きた姿と、そこで暮らす人々。そして自然。若いカンボジアの人たちが、その生活の様子を見て、多くのことを感じてくれるようになってきた。
 今回の取材は、わたくしのクメール語の小冊子『森の知恵』発行についてだった。そして、小冊子を献上させていただき、それに目を通されたシハヌーク元国王から直筆の感謝の書状を頂いたことへの、わたしの思いをインタビュー形式で受けた。しかし、恥ずかしながら、わたくしのクメール語は日常会話では何とかなるが、そんな公式的なインタビューにお答えするにはとても、のレベル。あらためて、読み書きからもう一度勉強しなくてはならないと、反省の気持ちが。
 さらには「カンボジアのシルクの現状と未来」などという、大それた質問を受け、答えたいのはやまやまだが、クメール語の言葉が出てこない。今週の木曜日の夕方には放映される予定だというが、解説で紹介していただけるとは思うのだが、やはり見るのが恥ずかしいような気が。
 タイで10年と少し暮らし、カンボジアでの暮らしも15年を超えた。でも、タイ語はいまでも普通に話せるのだが、クメール語は日常会話のレベル。最近は政府の方々とお会いすることもあるのだが、クメール語だけでは説明できないもどかしさがついてまわり、英語で補足の日々。
 60の手習いかな。タイ語のときもそうだったが、やはり読み書きから勉強しないとだめなのだろうと思い始めてきた。読み書きができるようになると、正確な音の違いがわかり、単語への理解と記憶が進む、はずである。

【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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2011-06-27

個人ブログ「にゃむ」のご紹介

 NPO法人かものはしプロジェクトの共同代表であり、カンボジア駐在員の青木健太さんの個人ブログ「にゃむ」に、6月10日付で「天然染料にチャレンジ!」という記事がアップされています。
 かものはしプロジェクトで製作している製品の染色を、天然染料で行なうことができないかというトライアルとして、染めを担当するスタッフとともに「伝統の森」で、イグサの染色を試みたようです。
 1950年代のカンボジアの農村部のフィールドワークの集大成ともいえるJ・デルヴェールの『カンボジアの農民』(風響社)のなかにも、たしかイグサ(茣蓙)の染色についての記述があったように記憶します。

2011-06-12

完成したクメール語の小冊子『森の知恵』

 6月11日に配信されたメールマガジン「メコンにまかせ」(vol.250)で、森本さんは、発行のための支援協力をお願いしていたクメール語の小冊子『森の知恵』が、ようやく完成したことを記しています。以下、長くなりますが、メールマガジンより引用します。

 はじめてわたしが「クメール語の小冊子発行に向けて」というメールを発信したのは2009年7月のことですから、ほぼ2年も前のことになります。小冊子の印刷発行と無償配布に向けて、みなさまにご支援をお願いしておきながら、ずいぶんと時間が経ってしまいました。あれはいったいどうしたのかと、ご心配いただいたり、呆れられている方もいらっしゃるかと思います。
 できあがった『森の知恵』を、NGOで働くカンボジアの人たちや、日本語を勉強している若いカンボジアの人たち、周辺の小中学生などに届けはじめております。すでに読み始めた人からは、いいね、という反響があったりします。年長の方からは、若い人たちがカンボジアの伝統を見直すきっかけに役に立つと言っていただいたり、なかには、届けた組織の日本人の方から日本語版はないのか、と聞かれたりしております。
 そして、ほんとうに光栄に思える出来事がありました。この『森の知恵』を読まれたシハヌーク元国王から、モニク王妃との連名で、手書きの賛辞のメッセージが届いたことです。これまで、共に歩んできたIKTTのみんな、そしてそれを支えてきていただいた方々と、その喜びを共有したいと思います。
 わたしが、カンボジアの人たちと直接、知り合うきっかけは1980年、当時たくさんのカンボジアの人たちがタイ国境に押し寄せ、国境付近には難民キャンプが次々とできていた。そして、悲惨な現状を伝えるニュースは世界を駆けめぐり、緊急支援のために世界中の援助機関が動き始めていた。縁があり、わたしは80年にバンコックを訪れ、友人たちから託されたわずかな支援物資をNGOに届けた。そしてできたばかりの日本のNGOで活動する、世界中から駆けつけた熱気のある若い日本人たちと出会うこともできた。その現場で出会った、いろんなバックグラウンドを持つ人たち、それはわたしにとって衝撃でもあった。そんな、人との出会いが最初のきっかけのように思える。
 そして81年、短期で難民キャンプを訪れ、難民となったカンボジアの人たちの姿、そこで暮らす人たち、そしてそこで活動する世界から集まった人たちに接したことが、京都で手書き友禅の親方として工房を構えていたわたしに、工房をたたみ、難民キャンプのボランティアとしてタイへ行くことを決意させた。それは、いっしょに仕事をしていた弟子から見れば、困った親方だったと思う。
 難民キャンプにある織物学校のボランティアとして、83年1月からタイへ。しかし到着してみると、そのキャンプは閉鎖が決まっていた。そんなとき、わたしが京都で染織の仕事をしていたことを知っている方が、国際ロータリーの会合でバンコックに来られていた。お会いして、「森本さん、あなたの経験を生かさなければ、もったいないよ」と一言。それが、現在まで続く「糸へん」と呼ばれる、布にかかわる仕事に自身を特化してきた、きっかけだったかもしれない。
 難民キャンプに収容されたカンボジアの人たち、そしてそのキャンプの周辺で古くからタイに暮らすクメール・スリンと呼ばれる人たち。そこに、黄色い生糸を吐く蚕がいた。京都で10年と少し、友禅染めという絹織物にかかわる仕事をしながら、生糸は白いものだと思っていた常識を覆された。そして、その黄色い生糸で織りあがった手作りの布が持つ風合いに、惹かれた。当時、村で作られている黄色い生糸は品質が劣るというのが、多くの専門家の常識だった。そのことへの疑問、そして実際に材料工学の専門家に検査をお願いしたこともある。そして、この黄色い生糸の良さを確信。以来30年近く、その黄色い生糸にまとわり付かれながら、その糸からできる布が好きで、今ではその人たちとカンボジア、シェムリアップで「伝統の森」と呼ぶ小さな村を作りながら暮らしている。それは、不思議な出会いの積み重ね。
 カンボウジュ種と呼ばれる、黄色い生糸で織り上げられたクメールシルク。しかし、長い内戦のなかで、そのすばらしい伝統が、カンボジアの人たちの中でも失われようとしていた。それを取り戻したいということが、わたしのIKTTとしての活動の起点。
 そして、そのすばらしい伝統が、暮らしとともにある豊かな熱帯モンスーンの自然の中で育まれてきたことと、そのことの大切さに改めて気付いたことが、シェムリアップ郊外のピアックスナエンに、織物を生み出す村の生活とそれを包む自然環境の再生をめざす「伝統の森」プロジェクトを開始した動機となった。
 アンコールの時代、かつてはそこはアンコールを包む森の一部だったと確信する。でも、「伝統の森」プロジェクトを始めてまもなく、周辺の、わずかに自然の木々が残されていた土地が、数日にしてブルドーザーですっかり伐採されるという状況も目の当たりにした。そして、現在のカンボジアには、この国にすばらしい伝統的絹絣があったことも知らず、それを見たことのない若い人たちがたくさんいることにも気付いた。
 桑の木を植え、蚕を育て、自然の染料を使って布を作る日々のことや、伝統や自然について、これまでわたしは日本語でメイルニュースやウェブサイトに書いてきた。しかし、わたしのクメール語のいたらなさもあり、なかなか周りにいるカンボジアの人たちに、そんな仕事への気持ちを伝えられずもどかしい思いもしてきた。そんなこともこのクメール語小冊子を作りたいと思った発端にあった。
 幸いなことに、松岡さんという方がボランティアで、わたしの日本語を英訳してくれていた。あるとき、ウェブにアップされていた英訳された文書を読んだIKTTのスタッフで英語を熱心に勉強しているサカ君が、それをクメール語に翻訳することを始めた。それがIKTTのスタッフやサカ君の同級生の間で回し読みされ、いろんな声が聞かれるようになってきた。IKTTに、お絵描き組というのがある、毎日好きな絵を描きながら給料をもらえる人たち。でも、彼女たちは、なぜわたしがお絵描き組を始めたのか知らないでいた。そして、わたしの思いをクメール語で読み、納得。また、クメールシルクの話を読み、初めて黄色いクメールシルクと白いシルクの違いがあることを知った人もいる。それならば、そのクメール語の原稿をまとめて小冊子にし、多くのカンボジアの若い人たちに読んでもらおう、というのがそものそもの始まり。
 そして、サカ君の翻訳の見直しを、元留学生のメアンさんにお忙しい仕事の合間を縫ってお願いし、格調高いクメール語と言えるだけのものに磨き上げられ、ようやく『森の知恵』ができあがった。
 こうして完成したことを、いまとても嬉しく思っています。
 日本から、出版と無償配布に協力していただいた多くのみなさんに、ここにあらためて感謝とお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。当初、お約束したとおり、ご支援いただいたみなさまのお名前も、本の最後のページに掲載させていただきました。深謝。

【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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※2009年7月に森本さんが発信した「クメール語の小冊子発行に向けて」については、こちらをご覧ください。

2011-06-10

映画「僕たちは世界を変えることはできない。」、そして川原医師の「手当て」

 6月9日に配信されたメールマガジン「メコンにまかせ」(vol.249)で、森本さんは先月末に突然日本にやってきた理由を説明されました。
 9月に全国ロードショー予定の、向井理さん主演の映画「僕たちは世界を変えることはできない。」の前売券購入者へのプレゼントとして、カンボジアのクロマーが贈られるそうです。じつは、そのクロマーの準備を、カンボジアにいる森本さんが依頼されていたのです。残念ながら、IKTTのシルクのクロマーではなく、森本さんが古くから知る、プノンペン近郊の織り手たちの村のクロマーだそうです。
 そのクロマーの発送手配が予定どおりにいかず、前売券の発売開始に間に合わせるために少量でも手持ちで日本に持ち込む必要があった、というのがコトの真相のようです。カンボジアの通関ルールに変更があったらしく、発送と通関を請け負っていた業者さんにとっても予想外の展開となったようでした。
 クロマーを成田空港で宅配便に託した後は、フォトグラファー内藤順司氏の紹介もあり、名取市へと向かい、現地で活動されるNPO法人ロシナンテスの川原尚行医師とそのスタッフのみなさん、そして現場に駆けつけたボランティアの方たちとの出会いがありました。以下、メールマガジンより、引用します。

 この数ヶ月、日本から伝えられるニュースを見ながら、カンボジアの地で被災地の方たちへの思いが募っていた。そして急遽、仙台の被災地で活動されるNPO法人ロシナンテスの川原尚行医師とそのスタッフのみなさん、そして現場に駆けつけたボランティアの方々とお会いする機会が持てた。しかし、訪れて、あらためて現場の大変さと、そこで活動される方々の気迫を感じた。厳しい現実を現実として受け止める、そこからしか始められないことだと、感じた。
 ロシナンテスの川原医師とは、被災地仙台で再会。スーダンで医療支援活動をされてきた川原医師が東北の被災地に入られたのは3月15日から。被災地での緊急支援の必要を理解し、そこにとるものもとりあえず駆けつけられた。それ自体、すごいこと。そして、被災地で現地の方と接しながら、川原さんは「薬はいらない」「大切なのは、手を当てること」と言われた。戦場のような被災地の中で、人びとと接しながら、医師として「手を当てる」行為の大切さを改めて実感されていた。その言葉は重く、お聞きしながら感激してしまった。
 そして、あらためて誰かに期待するのではなく、一人一人が個として、自身にとって身近な人にとって大切なことを見極めることが必要なのだと思えた。それは、基本は自己責任。そのための優先順位をはっきりさせ、それに従って行動することが必要なのではないだろうか。そして、のちのち後悔なく、納得できることをしなくてはならない。他人の目や、一般常識などにとらわれる必要はない。自身で決めていくこと、そんなことをあらためて感じた。

【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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2011-06-02

法然院から、荒浜小学校の生徒さんへの支援が行なわれています

 毎年11月の紅葉の時期に、森本さんの報告会とIKTTのシルクの展示販売を行なわせていただいている京都の法然院では、津波で被災された仙台市立荒浜小学校の生徒さんへの支援を行なっていらっしゃいます。以下、法然院のWebサイト(法然院サンガ:222)から引用します。

 日本赤十字社など大きな団体への寄付を通じての被災者支援は公平性の観点から大切とは存じますが、顔の見える方々への個別の支援にも一方で取り組んでゆきたく存じます。此度、御縁がございまして、3月11日の地震による津波で校舎が2階まで水に浸かり、自宅を流された生徒も多く、5kmほど離れた仙台市立宮城野小学校で授業を受けている仙台市立荒浜小学校の生徒の皆様方の卒業アルバム製作、修学旅行、校外学習を支援させていただくことになりました。
 義捐金をお寄せ下さる方は、郵便振替用紙の通信欄に「荒浜小学校生徒学習支援」とご記入いただき、お払い込み下さい。宜しくお願い申し上げます。

 郵便振替口座番号:01050-4-60318
 加入者名:本山獅子谷法然院