2010-12-20

未来へのシルク

 12月18日に配信されたメールマガジン「メコンにまかせ」(vol.241)で、森本さんは、日本の養蚕農家への提言を記しました。それに対して、すぐにtwitterで反応された方や、ご自身のブログで紹介された方がいらっしゃったようです。
 19日付でアップロードされた映像(「伝統の森」での座繰りの様子)にあるとおり、毎日のように「伝統の森」で、蚕の繭からの、シルクの座繰り作業を目にしている本人からの発言ですので、さすがに重みがあります。少々長いですが、以下、再掲します。

●未来へのシルク
 日本では養蚕農家の廃業が話題となっていると聞く。数百年、数千年の伝統が途絶えようとしているのだから、それは大変な出来事である。しかし、養蚕農家への補助金が打ち切られることで途絶える養蚕業のあり方そのものが、もう一度問われなければならない。
 わたしたちIKTTは、この15年のあいだ、20数年の内戦を経て途絶えかけていたカンボジアの養蚕業の再興とクメールシルクの復興を願って、活動を続けてきた。中国などで大量に生産されたマシンメイドのシルクではない、ヒューマンメイドのカンボジアシルク。在来品種を手引きした質の高いシルクのよさが見直され、需要が出てきている。そのため、ここ数年カンボジアでは、常に生糸の供給不足の状態が続いている。
 低賃金による安い生産コストを背景に、世界のシルク市場を制覇してきた中国は、最近、投機的な流れも含みながら輸出価格を倍に跳ね上げようとしている。そのなかで、あえて、わたしは日本の心ある養蚕農家を潰してはいけないと、と強く思うようになった。
 これまでの、農家が繭を生産して企業に販売するという従来の流通形態ではなく、米を農家が自家販売するように、糸を売る。それも機械繰糸ではなく、座操りと呼ばれる手引きで糸をひく。機械で引いた糸と、手で引いた糸には、その手間以上に明らかな違いがある。それは、機械で一律に繭から引かれるのではないテンションが糸にかかることで、しなやかな糸を生み出す。その糸を、農家は問屋や商社に卸してはいけない。直販、織り手や編み物をしている人たちに直接販売すればいい。そういう需要者との契約生産でもいい、それも可能なはず。価格も、十分採算が取れる利益を得ることができる。それは、農家が直販する米、新潟の「ササニシキ」と同じである。
 そのためには、これまでのような商社が指定した品種ではない、大量生産の機械向きではない良質の蚕の品種を選ばなければならない。幸いにも、現在の日本には、そうした品種が保存されている。昔の日本の農家では、納める以外の繭を自家用に手引きし、布を織っていた。納められない屑繭から、紬と呼ばれる糸を生み出していた。それは、知恵であり経験であり、文化と呼べる。
 幸いなことに、今であれば、そんな経験を持つ70代、80代の年配の女性が生きておられる。ときには、養老院におられるかもしれない。そんな方々を養老院から出てきていただき、孫に小遣いを上げる気持ちで、繭から糸を引いていただく。それを直販すれば、シルクのササニシキとして、これまでの価格の数倍の収益があるはずである。そうすれば、それを学びたい若い人たちも仕事として、やりたいという人が出てくるはず。
 そのとき、もうひとつのアイデアは、たとえば、障害者の作業所のようなところで、養蚕をやり、糸を引く、という事業を始められたらよいと思う。これまでであれば、利益率の低い、洗濯バサミ作りのようなわずかな収益を上げる仕事が主だったはず。そうではなく、手のかかる、しかし、それに見合った収益を上げることができる養蚕と生糸の生産には将来性があり、作業所のような環境がプラスに転換すると思える。それは、シルクの新しい未来である。
 生産とその生産形態と、生産物とその流通を見直す。これまでの大量消費を美とする社会通念から、適正な生産と消費とその流通を見直す、それがこれからの時代の美である。ゴミを生み出す社会のシステムや価値観は、もう十分なはず。適正の基準をどこに置くかという課題はこれからの検討に委ねるとして、人間が自然と共生していく社会が必要なことは明白である。社会の総生産量、エネルギーが極力ゴミとならないようにすることで、もっとゆとりのある社会が形成できるはずである。
 もう20年ほど前の話だが、アパレル業界の方に、このシルクは10年は持ちますし、使ううちに風合いもよくなるんですよと説明したことがある。すると、その担当の方ははっきりと「そんな必要はないのです」と言われた。2~3年で新しいものに買い換えていってもらったほうが売る側としてはよいわけで、だから10年も持つ必要はないのだ、と。そのための流行だし、ファッションなのだから、と。
 日本のキモノは、昔はお母さんから娘さんへ、そして時に孫へ。と伝えられ使われてきたものだった。ところが、最近のシルクは弱いのが当たり前。水での自家洗濯もできない。昔ならば、家で洗い張りを普通にしていた物が、今ではドライクリーニングだけ、そしてパール加工などという防水加工をしなければ使えない衣類になってしまった。呉服屋さんが、最近のキモノは素材のシルクが弱くて昔のように汚れてもシミ抜きができなくなっているといわれる。シミ抜きをするために擦るとそこに穴があくんです、と。ほんとうに驚きである。シルクは弱い物、それが今や新しい常識となっている。
 しかし、そんな弱くなったシルクの常識をもう一度変えていくことが、日本の養蚕農家のこれからの仕事にかかっている。季節の変化の中で、天然素材としてのシルク本来のよさが、夏には夏の、冬には冬の花鳥風月が、もう一度知られていくようなキモノを産み出していかないと、日本の美、キモノ文化も、ゴミとなっていかざるを得ない。

【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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