2013-09-23

バンテアイミエンチェイ州プノムスロックを訪ねる

 2013年の夏、バンテアイミエンチェイ州プノムスロックへと向かった。今日は、特別にIKTTのスタッフが同行する。
 シエムリアップを出発し、国道6号線を西へ。空港への分岐を右に見送り、直進する。四車線道路の状態はすこぶる良好。約1時間半でクララン(Kralanh)の町を通過し、さらに10分ほどで、右手に伸びる整備されたばかりのような直線道路に入った。未舗装ながら、コンバインを積んだ大型トラックが十分通行できるほどの道幅、道路脇にはカンボジアと日本の国旗の描かれた Trapaing Thmor Irrigation Site と書かれたプレートが掲げられていた(この一帯で、広域灌漑事業が実施されているのだ)。
 地平線まで広がる水田の中を貫く道路を進むこと約20分。水田のなかに島のように浮かぶ集落をいくつか通過し、再び集落に入る。道が突き当たったところに、ナーガの像の置かれたこじんまりしたロータリーがあった。右手に進むと賑やかな一角、ここがプノムスロックの中心部らしい。もっとひなびた村を想像していたのだが、そうでもない。
 商店が並ぶ一角を通り過ぎたあたりで車を停め、一軒の家に向かう。養蚕もやり、シルクとコットンの織りをしつつ、周辺の織り手からも布を預かり、シエムリアップの町に売りに行く仲買人のようなことをやっているという。家の裏手には10m×10mほどの桑畑があった。桑畑は他にもあるという。

 通常の織り機の幅の倍近い織り機もあった。これで幅広のコットンのブランケットを織っている。織り柄は「プノムスロック柄」という、菱形状の独特のものだ。コットンの糸は、プノンペンから先染めした糸を買っているという。
 続いて、すぐ近くのもう一軒の家に向かう。平べったい大ザルで蚕を飼っている。軒下には「まぶし」がぶら下がる。プノムスロックのまぶしは、カンポット州タコー村で森本さんが見たような葉のついたままの木の枝を梁から吊り下げるものではなく、葉を落した枯れ枝を束ねたかたちだ。
 そして3軒目。ここでIKTTのスタッフが、2つの大袋に詰められた黄色い繭を受け取る。ときおり「伝統の森」に、大量に届く黄色い繭の供給地は、ここプノムスロックだった。

 だが、この村の養蚕も曲がり角にきていた。現在、養蚕を行なっているのは、わずか17家族にまで減ってしまっているという。養蚕を止めて、タイへ出稼ぎに出る者が増えていた。クラランの町からタイ国境のポイペトまで約90キロ。状態のよくなった道路が、出稼ぎをさらに容易にした。内戦下でも養蚕が続けられ、その後、PASSというフランスのNGOの支援が入るなどしてきたこの村に、大きな変化が起きていた。
 町からちょっと離れたところに、大きな人造湖があった。ポル・ポト時代に作られた堤で水をせき止めたダムを改修したもののようで、この水源を活用して広域灌漑事業が進められている。ポル・ポト派の遺構で、後世の役に立っているものもあるのだ。
 ここプノムスロックは、森本さんが1996年のユネスコから委託された調査の際、州都シソポンから向かおうとしたときに「昨日、そこへの道で国連機関の車が手榴弾でふっ飛ばされた」と聞き、調査を断念したところである。
 その後、いくつかの縁が重なるなかで、プノムスロックの黄色い生糸はシエムリアップのIKTTへと届けられるようになった。そして今では、「伝統の森」に黄色い繭の状態で届くようになっている。
 生糸の生産地での状況の大きな変化は、今後のIKTTの活動、そしてカンボジアでの伝統織物の再興にどんな影響を与えるのだろうか。

0 件のコメント: