●手の届くところに
95年の調査の過程で、ラックカイガラムシがカンボジアの森から消えてしまったことを知った。カンボジアの鮮やかな絣の布の基本の色は、このラックカイガラムシの巣から得られる赤色。その巣は、昔は織り手の手の届くところにあった。
新鮮なラックの巣から得られる鮮やかな赤。その染め方を覚えているという、おばあちゃんと村で出会った。木の臼のようなもので、熱湯を入れながら、お餅のように杵で練りながら徐々に色を抽出していく。この方法は、新鮮なラックを使うときの抽出法。現在のIKTTでは、ラオスから送られてくる乾燥したラックの巣しか手に入らないから、まず巣を石臼で細かく挽く。その細かな粉状の巣を二晩ほど水に浸け、色を抽出する。これが乾燥したラックを使う場合の方法。
水に浸けるときに、タマリンドの実をほぐして入れる、タマリンドの葉でもよい。これが色の抽出を助ける助剤の役割をする。そしてタマリンドを入れることで、5年後10年後のラックの色の輝きがあきらかに違ってくる。わたしはそれを10年前、20年前に自分で染めた布で経験している。
ラックは、ヒマラヤ山系の山の中にいるカイガラムシの仲間。ブータンやネパールが、その故郷。ブータンでは、いまでも日常的にラックを使って染めているという。ラックは塗料のラッカーの語源でもある。今でも、その巣は、木の家具などを磨くために利用されている。色を抽出した後のラックの巣はシェラックと呼ばれ、非常に多様な工業製品の素材として使われてきた。たとえば、昔の黒いレコード盤の原料だったり、絶縁版のベークライトの原料として使われてきた。 第二次大戦中に、タイにいた日本軍は無線機などを作るために必要なこのラックの巣を、台湾や和歌山で生産するために、特別機を飛ばして、運んで実験していたというような記録も残されている。25年ほど前に、タイでこのラックと出会い、使いながら、その美しい色に惹かれ、いろいろとその由来などを調べ始めたことがある。日本の正倉院の宝物の中にも、このラックは残されている。非常に古い時代から、赤い色を染める染料として利用されてきた。
カンボジアの古い絣布に残された、鮮やかな赤い色を染めたくても、乾燥したラックでは限界がある。いつか、そのラックカイガラムシをカンボジアに取り戻したいと願ってきた。そのためには、ラックが寄生できる木と、そのラックが繁殖できる森の環境を再生しなければならない。失われた自然環境を取り戻す。それが2002年から動き始めた「伝統の森」再生計画の大きな課題であった。そのために、ラックが寄生できる木の中で、植樹と栽培が比較的容易なグアバの木を選び、苗木を準備し植えてきた。
ラックのために植えたグアバなのだが、数年して育ち始めると、みんなの関心はそのおいしい実にいく。それと並行して、荒地の中に残された切り株から芽吹いた木の中に、ラックが寄生できる木があることも分かってきた。そして、また数年、下草を刈り間引きをしながら、荒地は、林のような小さな森に育ち始めてきた。
不思議なことがあるもの、そんなふうに森が育つのを待っていたように、ラックカイガラムシが「伝統の森」に戻ってきた。降臨、舞い降りたのである。でもまだそれは小さな点のようなもの。今後、ラックが「伝統の森」を気に入り、元気に育ってくれなくてはならない。そして、実際にその巣を収穫できるのは1年か2年先。温かく、見守ってやらなくてはならない。
「伝統の森」再生計画を構想し始めて、10年が過ぎた。いまその計画の象徴でもあったラックカイガラムシを取り戻すことが実現した。それとともに、とても不思議な気持ちをいま感じている。それをまだ、うまく言い表せないでいる。しかし、あらためてこれまでのIKTTの活動を支えてきていただいた多くの方々に感謝の気持ちを、そして、この歓びを共有していただければと願っている。
来月、満月となる20日。ラックを携えて舞い降りた天使に感謝の気持ちを表すために、「伝統の森」にアプサラの踊り手たちを招き、ラックを迎える儀式を執り行う予定でいる。それは「伝統の森」でこれからラックカイガラムシが元気に育ってくれることを願う儀式でもある。
それは「伝統の森」の新しい門出、記念すべき日となるはず。
森本喜久男
【以上、メールマガジン「メコンにまかせ」掲載記事から再掲】
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※なお、ラック(ラックカイガラムシ)に関しては、「IKTTで使われている染め材~ラック」もご覧ください。
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